私が残してきたもの、これからも残していくこと


まるっと健康体のとき、「もし倒れたら」だとかそんなことを考えることはできなくて



回復のための情報をどれだけ欲するかもわならなくて



それは、「自分はならない」とどこかしらで思っているからなんだと思う



そしてそれはとても理解できる



私は私の身にふりかかったから、わかるだけ



「わかるだけ」



私はわかるのだ



どれだけ健康な人間も倒れたら何を欲するかがわかる



それは情報



治療もリハビリも勿論だけど、情報を同じくらい欲する



どんな情報を求めるのか?



同じように倒れた人が、どんなリハビリをしたのか、どんなことが効果的だったのか、どれくらいの期間でどれだけ回復したのか



そういう情報



そういう情報を必ず求める



これに関して私は「絶対」と言える



私は健康体の人に向けて情報発信をしているわけではない



「そうなった時必ず求める」ことも、その気持ちも、私はわかるから情報発信をしている



私はこれまでのことをホームページ等々に残してきたけれど、仮に残していなかったらそれらのことは今の私には多分「もうわからないこと」だ



なぜって、忘れていくから



身体は小さな変化だとしても少しずつ回復しているから(「回復するならいいじゃないか」ということではない)



そうなると、どんどん記憶は薄れていく



「辛かった」とかそういうことは忘れないけど、どんな状態でどんなリハビリをしてどんな過程を踏んできたのかは、残してなければ多分「もうわからない」のだ



「その時」の「その状況」はそのときだけのもの



だから私にとってもこれまで残してきた内容は貴重だ



アメブロ、Twitter、Instagramではこれまでありがたいことにお礼の言葉をいただいたりもした



「情報を残してくれてありがとう」と



「知りたいことをやっと見つけた」と



他にも「あぁ、情報発信活動をして良かった」と思える言葉をいくつもいただいた



LINEノベルでもレビューにはありがたい感想をいただいた



例えば有名人が倒れたら「誰それが何何で倒れた。」とか「復活した。」とかそれだけしか報道されない



なぜ?



どうやって「復活」したのかは多くの人の役に立つはずなのにそれは出てこない



出したくないからなのか、その後を追わないからなのか、それはわからないけれど



身体的弱者になり、経済的弱者になり、情報社会の弱者にもなり得る脳卒中の後遺症



常にどこかで誰かが困っている



常にどこかで誰かが情報を探している



だから私はどうにかしたい



私にできることをしたい



できることをやってる最中








戦争体験や悲惨な自然災害のことを語り継ぐことが大事なように、私はこういうことも大事だと信じている



なぜならその悲しみや辛さがとてつもないことを私は知っているから



回復の過程の情報の貴重さを知っているから





空を見上げることも今はできる




女30歳、脳梗塞、左半身不自由になりまして

30歳のときに左小脳梗塞で倒れて 左半身が不自由になりました。 リハビリ、トレーニング、 いろいろやってきてます。 同じような状況の方々や リハビリに携わる方々のために、 情報発信をしていきたいと思っております。

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