前回のブログで、「今目の前の時間を大事にする」ことを少し書いた。
せっかくなので、私が大事にしているもう1つのことも書こうと思う。
もう1つは、人だ。
大事な人を大事にする。
目の前の人を大事にする。
私が大事にしていることのひとつ。
倒れたあのときに私は、「なぜ母をもっと大事にしなかったのだろう」という後悔がとても大きかった。
母は誰よりも私を大事にしてくれていた人なのに、私は母を大事にできていなかった。
そう思った。
母と笑顔でいられる時間をつくろうと思った。
これが倒れたときに思ったことだった。
そして、母だけではなく、人を大事にしたいと思うようになった。
人を笑顔にしたいと心から思うようになった。
笑顔の時間をつくりたいと思うようになった。
いい時間を持ちたいと私が思うのは、自分の時間を大事にしたいからなのだけど、それは人に対しても思う。
大事な人の時間もできるだけいい時間であってほしいと思う。
もちろん、「一緒に笑顔でいられる時間」を持ちたいとは思うけれど、それができない場合は、まぁ仕方ない。そのときは引くだけ。
「大事にしたい。」と、口で言うのは簡単だけど、
行動となるとこれまた難しい気が私はする。
行動するにあたって、「どこが大事にしてることになってるの?」と思うことがある。
だから、中途半端な優しさだけはしたくないと、常々思う。
この中途半端な優しさってやつはけっこう厄介だ。
自分は「優しい」ことや「大事にしている」ことに酔っているというか、そう思い込んでいるからだ。
だから厄介。
中途半端な優しさの場合はそのほとんどがエゴだ。
だから厄介。
自分の行動が相手を笑顔にさせることができているかを考えないといけない。
自分の行動が相手を悲しませていないか考えないといけない。
中途半端な優しさとエゴを履き違えたとき、自分の行動の結果どうなっているか考えられていないことに気付かないといけない。
自分に都合の良い理屈はただの屁理屈だ。
でも人間だから、そんなうまくいかない。
うまくいかないからしない、ということはしない。
うまくいかなくても、何度失敗しても、考えたり、省みたり、その上で行動する。
そうやってトライして反省して、そんなことを続けて結果的に大事にすることができればいいんじゃないかと思う。
私は、時々、日常に慣れてしまって、「母を大事にできていない」と反省する。
「大事にしたい」だとか大口叩いてるから、自分は「大事にしている」と思っているわけだ。
でも行動はどうだろう…と、反省する。
そして申し訳なく思う。
「大事にできていなくてごめんなさい。」と思う。
そして、笑顔にできることを考えて行動する。
それが私の「大事にする」ということだ。
人を大事にする。
大事な人を大事にしたい。
そのために何ができるのか、
そのために私ができることはどんなことがあるだろうか、
必要であれば引くこともするけれど、
できることなら、大事な人とは一緒に笑顔でいたいものだ。
人間だから、エゴがある。
だから、「人を大事にする」って、簡単じゃないと思う。
でも、私は「人を大事にしたい」と思う。
大事にしなかったことは必ず後悔する。
それを私は経験してしまったからこそより強く思う。
死んでしまったら、したくてももう何もできないのだ。
言いたいことは言えない。
見たくても見られない。
聴きたくても聴けない。
動きたくても動けない。
どんなに「したかった。」だとか「しておけばよかった。」と思っても、一切なんにもできないのだ。
どんなに思っても後戻りは絶対にできない。
私は父を高校生の頃亡くしたのだが、私は父に何もできなかったけれど、父はどれほどの思いを遺したか計り知れない。
どんなに後悔しても、戻ることはできない。
そして、いつ自分が死ぬかはわからない。
(持病のある私なんかは尚更思う。)
いつ大事な人が死ぬかもわからない。
当たり前のことだけど忘れがちなこと。
当たり前のことなのになかなか考えられないこと。
自分の命も人の命も当たり前には存在しない。
大事にせずしてどうするのだ。
私はそう思う。
写真はどちらも父の若かりし頃↑↓
(母の写真は許可がおりなかったので許可要らずの父2枚。)
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